Sunday, July 8, 2012

日経新聞連載「大学開国」→今更ですか....?


最近日経新聞で「大学開国」とかいうテーマの連載記事を幾つか読んだが、正直なところ、もっと書くべき本質的な部分があるんじゃないの?という印象は拭えない。

日本の大学が以前にも増して海外主要国の大学と比べて競争力を落としているのは多分疑いの無い事実だと思う。逆に、ゆとり教育+少子化の進行+移民等は増えない+留学生も来ず、といった所謂、需要減が原因の供給過剰状態にある中で、日本の大学のレベルが下がらないと想定するのはむしろ非現実的だと思う。

自分自身が経験した高等教育制度というのは文系の分野で日本とアメリカだけなので、それ以外のことは全く知らないし、一般化して議論できるような知見もないが、それでも、日本の大学の質や生徒の質を底上げを議論する際に、重要だと思われる点でありながらも議論から欠落している点が幾つかあるのではないかと感じる。 例えば、

・「組織的読書の要求」これは「創造の方法学」(講談社現代新書)という、若くして逝去された社会学者の高根正昭 元上智大教授の著書の中で出てくる言葉だが、ここでいう「組織的」とは「強制的」と言い替えても意味は同じだと思うが、要は、徹底的に大量の読書を課せられるのが米国の大学のひとつの特徴だと思う。

・更に、自らの経験で言えば、学部学生であっても学生は授業に行って一から教えてもらうことなど全く期待してはいけない。何月何日のクラスはどの内容についてかは予めシラバスで明らかになっているので、その部分の教科書を事前に一通り読んで、指定されている参考文献にも目を通して、それで授業に出席して、授業は全ての学生がその予習を終えていることを前提に進む。それで、学部の基礎レベルのクラスであれば、一科目週に2回から3回の授業で、ほぼ毎回宿題、1週間に1回は小テスト、これに加えて、中間テスト、期末テスト(中級レベルのクラスだと、これにペーパーが加わる)といった感じのスケジュールの中で教科書の同じ章(チャプター)を授業前の予習で1回、授業後に宿題やる際に1回、小テスト前に1回、中間テスト前に1回、期末テストで中間テストの範囲も試験範囲に含める場合には、更にもう1回と読んでいたら、AかA-くらいの成績は取れる。

逆に、これだけやっていたら学習した内容は身につくに決まっている。大学というのは、そういう行動を制度的に課しているのが米国の高等教育を取り巻く環境であると思う。

・つまり、極論すれば、学部であっても米国の大学は教えない。むしろ、学生一人一人が自分で本を読んで勉強しないといけないことを強いられる環境を提供しているのだと思う。こういう中で、自分で学習する、解らないのは「先生が教えてくれない」のでもなく「先生の教えたかが悪い」のでもなく(少しはあるかもしれないが)、自分で解る方法を見つけられない自分の問題として捉え、自立・独立した、自ら学習できる大人になっていく、といプロセスになっているのだと思う。

・これを実現するには、2つの車輪があり、その一つが上記の猛烈な「組織的(=強制的)読書の要求」であり、もう一つの重要な車輪は、(そして、これは半分は大学の外の問題でもあるのだが)、上記の「組織的な読書の要求」をされる環境で自分で勉強することを最大限に可能にする仕組みというのが社会に組み込まれていることである。それは大学の教科書の質(1科目のテキストが800~1200ページ程度と分厚いが、非常に丁寧に、論理的に書いてあり、読めば必ず理解できる、という質的に優れたレベルの教科書)と量が十分すぎるほど担保されていることである。これの良質の教科書の存在なくして、「組織的読書の要求(或いは強要)」という大学教育システムは成り立ち得ないのではないかと思う。
こういう質と量の教科書が存在していることの凄いところは、「これは英語圏では当たり前のインフラである」という事実である。 日本でも、これを可能にする為には、そういう質の教科書を作ろうとする大学教員の熱意と共に、多分それ以上に、そういうものを出版しようとする出版社の社会的な姿勢の問題もあるだろうと思う。「薄っぺらい本しか売れないから」とか甘ちゃんなことをほざいている場合ではないのである。或いは、そんなの日本の出版業界には無理というのであれば、既に英語環境では存在している英語圏の教科書を使うか、片っ端から翻訳することである。 しかし、翻訳には時間がかかるし、翻訳することによってキャッチアップしている限りは、大学の開国などおぼつかないのは自明である。

国としての経済力にも見るべきものがなくなりつつあり(即ち、機会が相対的に少なくなっている)、一方で、1990年半ばの本格的なインターネットの到来と共に、言語の世界では英語の世界標準としての優位性は圧倒的に高まったという状況下で、敢えて(日本語と言う)言語障壁の高い日本の高等教育機関に留学をしようという海外の若者が少ないのは、残念ながら、余りにも当然の論理的帰結だと思う。

日本語と並んで英語の第二公用語化をするとか、ホントに社会の仕組みを根底から変えていく中でしか、高等教育機関としての日本の大学の開国などというのは有り得ない思う。